なぜ我々は「ソロ回転寿司」で、大好物を連続で注文できないのか?ベルトコンベアの上の自己検閲

サーモンばかり注文 ナントカのムダ使い

序章:その一皿は自由なはずだった

平日の昼下がり、あるいは仕事を終えた週末の夜。

あなたは誰に気兼ねすることなく、ただ純粋な欲求を満たすため、回転寿司の暖簾をくぐります。カウンターの端の席。目の前を色とりどりの皿が、まるで人生の選択肢のように静かに流れていきます。

ここは誰にも邪魔されないあなたの聖域です。

あなたはメニューを手に取り、脳内で最高のコースを組み立て始めます。まずは白身でさっぱりと。次に光り物。そしていよいよ本命、至高の一皿へ。

頭の中に、輝くサーモンの雄大な姿が浮かびます。口の中にあの濃厚な脂の甘みが、鮮やかによみがえります。

今日は徹底的にサーモンを浴びるように食べ尽くしてやろう。
あなたは、そう固く心に誓います。

一皿目のサーモン。至福。
二皿目のサーモン。まだいけます。幸福の絶頂。

そして、三皿目に手を伸ばそうとしたその瞬間。
あなたはなぜか、躊躇します。

その指は、まるで見えない力に押しとどめられるかのように、空中で一瞬静止します。そして、あなたは気づけばメニューの中の「玉子」や「かっぱ巻き」といった、およそ今心が求めてなどいない、無難な選択肢に目をやっているのです。

なぜでしょうか。

あなたは、誰に迷惑をかけているわけでもありません。
ここは、あなた一人の王国のはずです。

しかしあなたの心は、何かを恐れ、何かから逃れるように、「ありのままの自分(浴びるようにサーモンを食べたい自分)」から、静かに目を背け始めています

この記事では、この回転寿司のカウンターで我々が無意識のうちに行ってしまう哀しき自己検閲のメカニズムを解き明かしていきます。

第1章:誰があなたを見ているというのか?そこにいるはずのない監視者の正体

あなたの自由なお寿司の選択を阻むその見えない力。

その正体は、我々の心に深くインストールされた三体の監視者です。彼らは実際には存在しません。しかし、彼らの視線は確かにあなたの行動を縛っているのです。

カウンターの向こうで、職人が黙々と寿司を握っています。彼の視線は手元のシャリとネタに注がれているはずです。

しかしあなたの脳裏では、彼が全く別の仕事に従事し始めます

また、サーモンだ。
この客、さっきからサーモンばかり食べているな。
食の多様性を知らない、なんとも子ども舌な客だ。本当の寿司の楽しみ方をまるで分かっていない。

あなたの心が生み出したこの幻の板前は、もはや職人ではありません。

あなたの食のセンス、ひいては人間性を冷徹な目で見定め、格付けする評価者と化しています。あなたは、彼に「分かっていない客」だと思われたくない一心で、本当は興味もないネタに、思わず手を伸ばしてしまうのです。

あなたの隣の席に座る、見ず知らずの客。おそらく彼もまた、自分の目の前の皿に夢中です。
しかし、あなたの過剰な自意識は、彼を「社会の常識」を体現する鏡として機能させます

うわっ…あの人サーモンばっかり食べてる。ちょっと変じゃないか?

いい大人が同じものばかり。計画性がないというか、幼稚というか。普通は色々なネタをバランス良く食べるものだろうに。

この幻の隣人は、あなたに「普通であれ」と無言の圧力をかけてきます。

あなたは、その鏡に映る自分が「異端」で「奇妙」な存在であることを何よりも恐れます。その恐怖が、あなたを「サーモンだけを愛する自分」という本質から引き剥がし、「マグロやイカも人並みには嗜みますよ」という、平均的な人間の仮面を被らせるのです。

そして、最も厄介な監視者があなた自身の心の中にいます。それは、この食事を終えた後の「未来の自分」です。

ここでサーモンを10皿も食べたら、絶対に後悔する。
もっと他のネタを食べる経験を失ってしまうことになる。
栄養バランスも偏るし、周りから見ても美しくない。「もっと賢い選択ができたはずだ」と、帰りの電車で自分を責めることになる。

この「後悔の予言者」は、「損をしたくない」「常に合理的でいたい」という、現代人の強迫観念そのものです。

彼は、目の前の純粋な快楽を享受することを「リスク」と捉え、より「正しく」「効率的」で「後悔の少ない」選択をするように、あなたを絶えず誘導します。

快楽を求める本能と、合理性を求める理性との間で、あなたの心は引き裂かれていくのです。

第2章:なぜ我々はこの検閲に屈してしまうのか?

これら三体の監視者は、なぜこれほどまでに強力な支配力を持ち得るのでしょうか。それは、我々が社会生活を営む上で骨の髄まで叩き込まれた、二つの根深い呪いのせいです。

我々は農耕民族の末裔であると言われます。かつて、村の和を乱し共同体から排除されることは死を意味しました。「他人と違うこと」は、我々の遺伝子レベルで恐怖として刻み込まれているのかもしれません。

「サーモンばかり食べる」という行為は、栄養学的には何の問題もありません。しかし、社会学的には「みんながやっていること(多様なネタを頼む)から逸脱する」という、反社会的な行為であるかのように感じてしまうのです。

我々はその行為によって、「協調性のないヤツ」「自分勝手なヤツ」という烙印を押され、この回転寿司という名の小さな共同体から、精神的に追放されることを本能的に恐れているのです。

我々はメディアや社会から、常に「理想的な大人の姿」を刷り込まれ続けます。

「食通とは、旬の魚を知り、その繊細な味の違いを語れる人物である」
「知的な大人とは、多様な選択肢の中から、常に最適な布陣を組める人間である」

この「あるべき姿」という偶像を、我々は無意識に崇拝してしまっています。

「サーモンが大好き」というあまりにもシンプルで正直な自分の欲望は、この偉大な偶像の前に差し出すには、あまりにも未熟で幼稚なものに感じられてしまうのです。

そして我々はありのままの自分を偽り、背伸びをしてその偶像に少しでも近づこうと、特に好きでもない他のネタに手を伸ばします。

それは、理想の自分を演じるための痛々しいロールプレイングなのです。

終章:あなたのサーモンはあなただけのもの

もう一度、目の前の光景を見つめてみましょう。

ベルトコンベアはただ黙々と、あなたのためだけに回り続けています。
板前は、あなたが何を頼もうとプロとしてただ最高の仕事をするだけです。
隣の客は、あなたの皿のことなど1ミリも気にしてはいないでしょう。

そうです。誰もあなたのことなど見てはいないのです。
あなたを縛り付けていた監視者の正体は、全てあなた自身が生み出した幻影に過ぎなかったのです。

あなたが「変だと思われたくない」と恐れるその「変」とは、一体誰が決めた基準なのでしょうか

あなたが失うことを恐れるその「普通」とは、一体、誰にとっての普通なのでしょうか

あなたが今日浴びるようにサーモンを食べたとして、世界の何が変わるというのでしょう。誰が傷つき、誰が不利益を被るというのでしょう。

答えは、「何も起こらない」です。

失われるものがあるとすれば、「周りの目を気にして、ありのままの自分でいられない臆病な自分」だけです。

人生とは、この回転寿司のカウンターに似ています。

目の前を、数え切れないほどの選択肢が通り過ぎていきます。社会は「バランス良く選ぶのが賢い生き方だ」と囁きかけます。

しかし、もしあなたがただ一つのネタを、心の底から求めているのなら。
他人の視線という名の幻影を振り払い、その手を伸ばす勇気を持つこと。
「これが、私の好きなお寿司だ」と、胸を張ってそれだけを頬張る自由を行使すること。

それは、わがままではありません。
それは、自分自身の人生の主導権を、社会という名の「他人」から自分自身の手に取り戻す最初の、そして最も有意義な革命なのです。

さあ顔を上げて、もう一度流れる皿を見てみましょう。
あなたの目の前に今まさに、とろけるようなサーモンが流れてきました。
もう一度サーモンを注文するのも、もうためらいはないはずです。

あなたのサーモンは、あなただけのものなのです。

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