「潜在能力の保持」という名の聖域:なぜ我々は、体育の授業で全力を出せなかったのか
体育の授業で、バスケットボールの試合が始まる前のことです。チーム分けが終わり、軽くパス練習が始まる。その時、クラスの中に必ず存在する一人の少年がいます。
彼は、驚くほど緩慢な動きでボールを受け、シュートを打つ時も、ゴールを狙うというよりは「ボールをリングに向けて投げる」という作業をこなすだけ。チームが負けても、「まあ、別にいいし」とでも言いたげな表情で、誰よりも先に水道へと向かう。
彼は運動神経が悪いのでしょうか。いいえ、むしろ小学生の頃は、誰よりも速く走っていたりするのです。彼は試合に興味がないのでしょうか。いいえ、その心の奥底では、誰よりも劇的な逆転シュートを決める自分を想像しています。
では、なぜ彼は全力を出さないのか。それは彼が、思春期という特殊な時空の中で、極めて高度で、しかし限りなく脆い、ある種の「自己防衛儀式」を執り行っているからです。我々は、この儀式を「潜在能力の聖域化」と呼ぶことができます。
「もしも」の領域:全力が拓く地獄、手抜きが守る楽園
中学生にもなると、私たちは残酷な現実に気づき始めます。それは、「努力は必ずしも結果に結びつかない」という事実です。そしてもう一つ、「結果は、個人の能力を序列化するための冷徹な指標になる」という事実です。
体育の授業は、この残酷な現実が最も露骨に現れる空間です。50メートル走のタイム、バスケットボールのゴール数、サッカーの得点。全てのパフォーマンスが白日の下に晒され、数値化され、他者と比較される。この評価システムから、私たちはいかにして自分の尊厳を守ればいいのでしょうか。
ここで、少年は一つの真理に到達します。それは、「測定不能なものは、評価できない」という真理です。
もし彼が、この試合に全力を出して、100%の力でプレーしたとします。その上でシュートを外し、試合に負けたなら何が起きるか。それは、彼の「バスケットボールの能力」がその程度のものであるという動かぬ証拠の確定を意味します。
彼の価値は「その程度」と値踏みされ、クラス内カーストにおける彼の序列もそれに準じて固定化される。これは、自我が確立し始めた彼にとって耐え難い地獄です。
しかし、もし彼が「70%の力」でプレーしていたならどうでしょう。シュートを外しても試合に負けても彼の価値は傷つきません。
なぜなら彼の中にも、そして彼を見ている周囲の人間の中にも、「もし彼が本気を出していたなら、結果は違ったかもしれない」という、「もしも」の領域、つまり「可能性」が残されるからです。
彼が守りたいのは試合の勝敗ではありません。彼が守りたいのは、「もしも俺が本気を出せば、もっとできるはずだ」という、誰にも測定不可能な「潜在能力」という聖域なのです。
「本気じゃない俺」を演じるという、もう一つの「本気」
この儀式が興味深いのは、少年が「本気を出さない」という状態を維持するために、実は別の方向で「本気の努力」を費やしている点です。
彼のプレーを見てみましょう。その緩慢な動きは、本当にやる気がない者のそれとは、質的に異なります。やる気がない者は、ただ動きが鈍い。
しかし彼の動きは、「私は今、意図的に全力を出していません」というメッセージを周囲に発信するために、細部まで計算された「演技」なのです。
シュートを撃った後の、少し気だるそうな表情。パスをミスした時の、他人事のような視線。そして決定的なのは、試合後の「別に悔しそうではない」という態度。
これら全てが、彼が自らの「私は本気で取り組んでいるわけではないので、敗北が私の運動能力の不足を物語っているわけではないのですよ」という聖域を守るために全身全霊で演じているパフォーマンスです。
彼は運動能力の競争からは降りる代わりに、「いかに自然に本気じゃないように見せるか」という別の次元の競争に、たった一人で参戦しているのです。
この演技がうまい者ほど、周囲からは「あいつは本気出せばすごいかもしれない」という評価を得られ、聖域はより強固になります。しかしその演技に失敗し、「あいつ、本気でやってあれかよ」と見なされた時、彼の世界は静かに崩壊します。
観客のいない舞台の上で
私たちは、体育の授業における彼の姿を、単に「斜に構えた格好つけ」と笑うことはできません。なぜならこの構造は、思春期を終えた後の私たちの人生のあらゆる局面に、形を変えて現れ続けるからです。
「本気で婚活する気はない」と言いながら、マッチングアプリのプロフィールを眺める夜。
「この会社で出世するつもりはない」と嘯きながら、同僚の昇進を横目で見る日。
「別に本気で書いたわけじゃないから」と予防線を張りながら、SNSに作品を投稿する瞬間。
失敗して、自分の能力の限界を知るのが怖い。だから、いつまでも「本気さえ出せば、自分にはもっと可能性があるはずだ」という楽園に留まり続ける。あの体育館で一人きりの舞台に立っていた少年は、今も私たちの心の中に住み着き、全力を出すことを、そっと制止してくるのです。
私たちが本当に向き合うべきは、試合の勝敗や他者からの評価ではありません。
もしかしたらそれは、「本気じゃない」という演技を続けることで、一体何を誰から守ろうとしているのか。観客のいない舞台の上で独り踊り続ける自分自身の姿なのかもしれません。