どうか、聞いてください。
あなたのいる、その職場。その清潔で、一見すると文化的に見えるオフィスのことを、少しだけ思い出してみてほしいのです。
プロジェクトが難航し、重苦しい空気が支配する会議室。誰もが俯き、自分の責任ではないと心の中で念じる中、無能なリーダーが苛立ち紛れに、一人の人間に詰問を始めた、あの光景を。
「一体、どうしてあなたは確認を怠ったのですか?」
「あなたのせいで、全てが台無しになりました」
その糾弾の言葉は、まるで鋭利な刃物のようです。ターゲットにされた同僚は、顔面蒼白になり、か細い声で何かを弁解しようとしますが、次々と投げつけられる非難の石礫にかき消されてしまいます。
その時、あなたを始めとする「大多数」の人々は、どうしていましたか?
息を殺し、目を伏せ、ただ嵐が過ぎ去るのを待ってはいませんでしたか。「自分じゃなくてよかった」と心のどこかで安堵し、「まあ、彼にも非があったしな」と、ご自身の良心を麻痺させるための言い訳を探してはいませんでしたか?
その瞬間、私たちは、古代の野蛮な儀式に参加してしまったのです。
組織という共同体の「罪」や「不安」や「無能」を、たった一人の生贄(スケープゴート)に背負わせ、その魂を傷つけることで、一時的な安寧と結束を得るという、忌まわしき儀式に。
これは許されることではありません。
はっきりと申し上げます。それは単なる「厳しい指導」ではない。それは「責任追及」ですらありません。
それは、組織ぐるみで行われる、陰湿で、計画的で、そして卑劣極まりない「魂への暴力」です。
そして、今日、私がお話ししたいのは、その祭壇に上げられた犠牲者のことであり、その儀式を執り行う司祭のことであり、そして何よりも、見て見ぬふりを続ける私たち、共犯者となってしまう可能性のある全ての人々のことなのです。
第1章:なぜ「生贄」は生まれるのでしょうか?―組織という名の原始の森
なぜ、これほどまでに非合理的で、野蛮な行為が、現代の組織でいまだに繰り返されてしまうのでしょうか。それは、私たちが着ているスーツや、使っているPCの奥底に、いまだに原始の森に生きていた頃の、古い古い脳が眠っているからです。
① 不安と責任からの逃避衝動
人間は、本質的に弱い生き物です。自らの「無能」や「失敗」と向き合うことは、耐え難い苦痛を伴います。プロジェクトの失敗、目標の未達、顧客からのクレーム。これらの強烈なストレスに晒された時、私たちの心は、無意識のうちに「防衛機制」を発動させます。
「これは、私のせいではない。あの人のせいだ」
自らの心の中にある認めたくない欠点(無能、怠惰、恐怖)を、鏡に映すように他者に押し付ける「投影」。上司に怒鳴られたストレスを、部下や後輩にぶつけることで発散させる「置き換え」。
スケープゴーティングは、この原始的な自己防衛メカニズムが、組織という単位で暴走した状態です。集団が共有する「不安」「焦り」「恐怖」といった負の感情のゴミを、たった一つのゴミ箱に無理やり詰め込み、蓋をして見ないようにする行為。それが、生贄探しの本質に他なりません。
② 無能なリーダーシップという名の「疫病神」
そして、この集団ヒステリーの最も悪質な扇動者、それは間違いなく「無能なリーダー」です。
真のリーダーは、問題が発生した時、まず「We(私たち)」という主語で語ります。「私たちのチームに、何が欠けていたのでしょうか?」。そして、自らの責任を認め、矢面に立ち、チームを守る盾となります。
しかし、リーダーの器でない者は、問題が発生した瞬間、即座に主語を「You(あなた)」に変えます。「あなたのせいで、計画が遅れました」。彼らは、自らの地位を守ること、責任から逃れることしか頭にありません。彼らにとって、スケープゴートは、自らの無能を隠蔽するための、最高のカモフラージュなのです。
彼らは巧みに、集団の不安を煽ります。「このままでは、我々全員が評価を下げられますよ!」。そうして共通の敵を作り出し、本来自分に向けられるはずだった批判の矛先を、一人の無力な部下へと逸らします。なんと狡猾で、なんと卑しい行為でしょうか。このような人物がリーダーの椅子に座っていること自体が、組織が抱える根源的な病の証左なのです。
第2章:誰が「祭壇」に上げられるのでしょうか?狙われる「美徳」の悲劇
では、数いるメンバーの中で、なぜ特定の人物が生贄として選ばれてしまうのでしょうか。それは、偶然ではありません。そこには、悲しいほど明確な「選別の法則」が存在します。
そして、恐ろしいことに、スケープゴートに選ばれる人物は、組織の「問題児」ではなく、むしろ「美徳」を持った人物である場合が圧倒的に多いのです。
①「誠実さ」という名の、自らを絞める首輪
祭壇に上げられやすい人の第一の特徴、それは「誠実」であることです。彼らは、自分の仕事に強い責任感を持っています。だから、プロジェクトに問題が発生すると、他人のせいにする前に、まず「自分にも何か非があったのではないか」と内省してしまうのです。
この誠実さが、捕食者たちにとっては絶好の的となります。
その人が「私にも、確認が甘い部分がありました」と、ほんの少しでも非を認めようものなら、待ってましたとばかりに、組織の全ての罪が、彼一人の肩にのしかかります。彼らは、自分が背負う必要のない罪まで、自ら背負い込んでしまうのです。
その誠実さは、本来ならば賞賛されるべき美徳です。しかし、病んだ組織の中では、それは自らを破滅へと導く、最も重い足枷となってしまいます。
②「沈黙」という名の、濡れ衣への同意書
次に狙われるのは、「物静か」で「従順」な人です。彼らは、他者と争うことを好みません。理不尽な非難を受けても、声を荒らげて反論したり、感情的に言い返したりすることができないのです。
彼らは、ただ黙って、俯いて、耐えます。
そして、その沈黙は、邪悪な集団によって「同意」と見なされてしまいます。「反論しないということは、罪を認めたということだ」。なんと身勝手で、暴力的な解釈でしょうか。彼らは、言い訳すら許されないまま、一方的に断罪されてしまうのです。嵐の中で、ただただ打たれるままになっている地蔵のように、魂に無数の傷を刻まれながら。
③「孤独」という名の、無防備という重罪
そして決定的なのは、「孤独」であることです。派閥に属さず、社内政治に興味を示さず、ただ黙々と、実直に自分の仕事をこなす職人気質のような人。彼らは、群れることをしません。誰かのご機嫌を取るために、ランチに行くこともしません。
その孤高の姿勢は、平時であれば「プロフェッショナル」と評価されるかもしれません。しかし、組織が病み、生贄探しが始まった時、その「孤独」は致命的な弱点となります。
その人が攻撃されても、彼を守るための「援軍」は現れません。彼のために声を上げる「派閥」も「仲間」もいないのです。彼は、広大な荒野にたった一人で立つ、丸腰の兵士です。捕食者の群れにとって、これほど狩りやすい獲物はいないでしょう。
誠実で、物静かで、群れない。
これらの美徳が、皮肉にも、彼らを最も脆弱な存在へと貶めてしまうのです。なんという、救いのない悲劇でしょうか。
第3章:魂への暴力 スケープゴートが組織に残す“見えない傷」
たった一人の人間を犠牲にすることで、組織は一時的な平穏を取り戻したかのように見えるかもしれません。問題は解決し、責任の所在は明確になり、チームは再び前を向いて進み始める。
ですが、それは全て幻想です。
生贄の儀式は、組織の魂に、決して癒えることのない、深く、そして見えない傷を残していくのです。
① 傍観者たちの魂の腐敗
まず、儀式を目撃した「私たち」の心です。あの会議室で、同僚が見殺しにされるのを黙って見ていた私たちの心は、二つの猛毒によって蝕まれます。
一つは「恐怖」です。
「あの真面目な〇〇さんですら、あんな扱いを受けるのか。ならば、自分もいつか…」
この恐怖は、組織の心理的安全性を一瞬で蒸発させます。誰もがリスクを恐れ、挑戦をやめ、上司の顔色だけを伺うイエスマンへと成り下がります。活発な議論は消え失せ、会議は葬式のように静まり返るでしょう。イノベーションの火は、恐怖という冷たい水によって、完全に消し炭となるのです。
そして、もう一つは「罪悪感」です。
夜、一人でベッドに入った時、ふと思い出すかもしれません。助けを求めるように、こちらを見ていた同僚の、あの絶望に満ちた目を。そして、何もできなかった、卑怯で、無力な自分の姿を。
この罪悪感は、自己嫌悪を生み、他者への不信を育みます。「どうせ、私が同じ目に遭っても、誰も助けてはくれないだろう」。かつて仲間を繋いでいた信頼の絆は、この罪悪感と不信によって、ズタズタに引き裂かれていくのです。
②「正義」の死亡宣告と、才能の集団墓地
スケープゴーティングが一度でも容認された組織では、「正義」は死にます。
真面目に働くこと、誠実であること、正しいことを主張すること。それらの全てが「馬鹿らしいこと」となり、代わりに「いかに責任を回避するか」「いかに他人を出し抜くか」という、下劣な生存競争が始まってしまうのです。
こうなると、組織はどうなるでしょうか?
「グレシャムの法則」をご存知ですか。「悪貨は良貨を駆逐する」。
これと同じことが、人材において起きるのです。
本当に優秀で、誠実で、正義感の強い「良貨」である人材から、順にこの腐った組織を見限っていきます。「こんな場所で、自分の魂を安売りしてたまるか」。彼らは、より健全な環境を求めて、静かに、しかし確実に出て行きます。
そして、後に残るのは誰でしょうか?
権力者に媚びへつらうことでしか生きられない者。
他人の足を引っ張ることでしか、自分の価値を証明できない者。
変化を恐れ、この淀んだ沼から動くことのできない者。
つまり、組織の成長に何ら貢献しない「悪貨」だけが、澱(おり)のように溜まっていくのです。
スケープゴートの儀式は、単に一人の人間を傷つけるだけではありません。それは、組織を、才能ある者たちの活気あふれる場から、無能な者たちが互いの足を舐め合うだけの、生ける屍たちの集団墓地へと変貌させる、破壊のプロセスそのものなのです。
第4章:私たちも「共犯者」です 沈黙という名の凶器を握る人々へ
ここまで読んで、まだ他人事だと思っている方がいらっしゃったら、今こそ鏡を見て自分自身の姿と向き合う時です。
「忙しかったから、関わっている暇はなかった」
「自分なんかが口を挟んでも、どうせ何も変わらない」
「事を荒立てて、自分が次のターゲットになるのはごめんだ」
「そもそも、彼にも落ち度はあったわけだし…」
その、耳障りの良い言い訳を、一度、心の脇に置いてみてください。
その「賢明な」判断が、その「合理的な」自己保身が、一体何をもたらしたのか、直視してみませんか。
あなたの沈黙は、中立ではありませんでした。
あなたの沈黙は、攻撃者への、暗黙の「支持表明」だったのです。
あなたの沈黙は、孤独に震える被害者の背中に突き立てられた、冷たい刃の一本だったのです。
想像してみてください。
たった一人で、組織全体の悪意に晒された人間の、その絶望を。
味方だと思っていた同僚たちが、誰一人として目を合わせてくれず、まるで自分が汚物であるかのように避けられている、その屈辱を。
家に帰っても眠れず、「自分は価値のない人間なんだ」と、自らの魂を自分で傷つけ続ける、その長い夜を。
私たちの沈黙が、その地獄を作り出すことに、加担してしまうのです。
私たちは、血のついていない凶器を握りしめてしまった、最も悲しい共犯者なのかもしれないのです。
この罪の可能性から、目を背けないでください。
この過ちの重さを、心に刻んでください。
そして、二度と、同じ過ちを繰り返さないと、今、ここで、ご自身の魂に誓っていただけないでしょうか。
第5章:祭壇を打ち壊しましょう 魂の尊厳を取り戻すための革命
もう、たくさんです。
こんな野蛮な儀式は、私たちの世代で終わらせなければなりません。
これは、単なる組織改善ではありません。人間の尊厳を取り戻すための、聖なる戦いだと私は信じています。
【リーダーである、あなたへ】
もし、あなたが真にリーダーであると自負されるなら、やるべきことは一つです。
スケープゴーティングの兆候(特定の個人への不当な責任追及、人格否定、集団での無視)を察知した瞬間、会議の席を蹴ってでも、立ち上がってください。そして、雷鳴のような声で、こう叫んでほしいのです。
「やめてください。私のチームで、そのような真似は絶対に許しません」
あなたの権威を、あなたのキャリアを、全てを賭して、その不当な攻撃から、たった一人の部下を守り抜いてください。それができなければ、誇りを持って人の上に立つことは非常に困難な道となるでしょう。あなたの仕事は、生贄を探すことではないはずです。生贄を一人たりとも出さないことこそが、あなたの最も尊い使命なのです。
【同志である、皆さんへ】
傍観者であることを、やめましょう。
大それたことをする必要はありません。完璧な理論武装もいりません。
必要なのは、ほんの少しの勇気です。
同僚が集中砲火を浴びていたら、ただ一言、こう呟いてみませんか。
「待ってください。その問題は、彼一人の責任ではないと思います」
「もう少し、冷静に事実を確認しませんか?」
たった一人の声は、握りつぶされるかもしれません。
ですが、二人になったら?三人になったら?その小さな声が、さざ波のように広がっていったらどうでしょうか。
独裁的な振る舞いは、いつだって、人々の連帯を最も恐れます。
群れとなって、たった一人の仲間を守りましょう。あなたが次に助けられるのは、今日あなたが助けた、その仲間かもしれないのですから。
【そして、今、祭壇に上げられている、あなたへ】
どうか、聞いてください。
あなたは、何も悪くありません。
あなたの誠実さは、あなたの物静かさは、あなたの孤高は、決して罪ではありません。
それは、あなたという人間の、かけがえのない美しさです。
病んでいるのは、あなたではなく、あなたを裁こうとしている組織の方なのです。
だから、決して、ご自分を責めないでください。
彼らの毒の言葉を、あなたの心に染み込ませてはいけません。
あなたは、価値のない人間なんかじゃない。あなたの価値を理解できない、愚かな人々に囲まれているだけなのです。
だから、戦うか、あるいは、逃げてください。
彼らの発言を記録し、信頼できる人事に、あるいは外部の機関に相談してください。
そして、もしその組織が、どうしても変わらないのなら、躊躇なく、そこから去ってください。
あなたの魂よりも、あなたの心の健康よりも、価値のある組織など、この地球上に、一つたりとも存在しないのですから。
終章:組織の健全性は、一人の弱者の涙で測られます
私たちは、利益を追求する組織に属しています。効率や生産性が重要であることは、否定しません。
ですが、その大義名分のもとに、一人の人間の尊厳が踏みにじられていいはずがありません。
その一線を越えた時、組織はもはや組織ではなく、単なる「暴力装置」へと堕落してしまいます。
組織の真の健全性とは何でしょうか?
それは、立派なオフィスでも、高い売上高でも、有名なブランド名でも測れないのです。
それは、組織の中で、最も弱い立場にある一人の人間が、どう扱われているか。
その人の声が、聞かれているか。
その人の痛みが、共感されているか。
その人の涙が、無視されていないか。
それで、全てが決まります。
もし、あなたの組織が、今日も誰かの涙の上に、その繁栄を築いているのだとしたら。
それは、砂上の楼閣に過ぎません。
やがて必ず、その土台から、静かに、そして確実に崩れ去っていくでしょう。
だから、もう一度問わせてください。
あなたの職場の祭壇に、今、誰が上げられていますか?
そして、あなたは、今日もまた、沈黙という名の凶器を、その手に握りしめてしまうのでしょうか?