崩壊前の城
チリンチリンとドアベルが鳴る。
俺はその音に気づいてすらいませんでした。スマホの画面では昨日から追いかけている「【衝撃】100年後に発見された、絶対に解読できない古代文書の謎 TOP5」というまとめサイトの記事がちょうど佳境を迎えていたからです。
古代文明の謎に比べれば、ファミレスのドアが開く音など取るに足らない環境音でしかありません。
ガストの窓際のボックス席。ドリンクバーから汲んできたばかりのメロンソーダと、湯気を立てるチーズINハンバーグの完璧な布陣。
俺はイヤホンの再生ボタンを押し、お気に入りのマイナーな洋楽バンドのアルバムを流し始めます。完璧です。誰にも邪魔されない、俺だけの城。そう、城と呼ぶにふさわしい空間でした。
しかし、その平和は突如として終わりを告げます。
最初に異変を捉えたのは聴覚でした。ヘッドホンをしていても貫通してくる、あの聞き慣れた、そして聞きたくもない高周波数の笑い声。戦闘機の接近を知らせるレーダーのように、俺の脳内で警告音が鳴り響きます。
「マジでそれウケる!」
「てか腹減りすぎ!ハンバーグしかないっしょ!」
まさか。恐る恐るスマホから顔を上げ、声の発生源に視線を向けます。
終わりました。
サッカー部の鈴木、バスケ部の佐藤、そしてその周りに侍る女子たち。俺のクラスを支配する食物連鎖の頂点、通称「一軍(ファースト・クラス)」が、フルメンバーで入店してきたのです。
その瞬間、俺のチーズINハンバーグから立ち上っていたはずの湯気は、まるで緊張感で凍りついたかのように見えなくなりました。
なぜ、味覚は仕事を放棄するのか
店員に案内され彼らが座ったのは、俺の席から斜め後ろ、二つ隣のテーブルでした。
絶妙な距離感。遠すぎずそして近すぎず。完全に無視するにはあまりにも近く、しかし挨拶するには絶望的に遠い、悪魔的な距離です。
ここからが本番でした。まず俺の身体に訪れたのは、「味覚の完全なる放棄」という現象です。
ついさっきまで、脳内で「うまい!これこれ!」と賞賛していたはずのチーズINハンバーグ。
それを口に運んでも、もはや味がしません。
脳のCPUが、「敵(やつら)の位置情報の把握」「俺の存在をどうカモフラージュするかの計算」という2つのタスクに全リソースを割き始めたため、味を感じるという平時には当たり前だった機能が、省エネモードに切り替えられてしまったのです。
これは、非常事態における人体の正常な防衛反応と言えるでしょう。
つまり、ライオンに遭遇したシマウマが、足元の草の味なんぞ気にしている場合ではないのと同じ。
俺にとって彼らの存在は、生物学的な意味での「捕食者」に他ならなかったのです。
「見られているかもしれない」という呪い
次に俺を襲ったのは、かの有名な「観測者問題」でした。
いや、量子力学の話ではありません。もっと身近で、もっと残酷な問題です。
「もしかして、あいつら、俺のこと見てる…?」
この思考が一度頭をよぎったが最後、俺のすべての行動は「第三者からの評価」というフィルターを通して行われるようになります。
- フォークとナイフの使い方
あれ、俺の持ち方、変じゃないか?音がカチャカチャうるさくないか? - ハンバーグの切り方
一口がデカすぎないか?逆にちまちま切りすぎててキモいと思われてないか? - 俺の顔
今の俺、どんな顔で飯食ってんだ?口元からチーズはみ出してないか?
俺がただチーズINハンバーグを食べているだけのこの光景が、明日には「昨日、根木がガストでヤバい顔してハンバーグ食ってた(笑)」という風に切り取られ、教室という名の公開法廷で笑いものにされる可能性がある。
その恐怖が、俺の手からフォークの動きの自由を奪います。
究極の二択と、会計までのステルスミッション
食事はもはや拷問でした。味のしないハンバーグを胃に流し込み、俺は脳内で次のミッションのシミュレーションを開始します。
「いかにして敵に気づかれず、この場から脱出するか」。
プランA、颯爽と退店。 しかし、これは彼らと会計のタイミングが重なる危険性をはらんでいます。「お、根木じゃん!一人?」という、死刑宣告のような言葉をかけられる確率、実に35%。却下です。
プランB、彼らが食事に夢中になるまで待つ。 これが最も安全策です。しかし、彼らの会話を聞き続けるのは精神衛生上よろしくない。
あの会話には、俺の知らない単語、俺の知らないイベント、俺の知らない人間関係が満ち溢れており、聞いているだけでHPが削られていきます。
俺はプランBを選択しました。
スマホを立てかけ、まとめサイトを読んでいるフリをしながら、聴覚だけを最大限に研ぎ澄ます。
そして15分後、ついにその時が来ました。全員がハンバーグと格闘し始め、会話が途切れた、わずか10秒間の空白。
今だ。
俺は音を立てないように、まるで精密機械のように、しかし誰が見ても「もう帰ります」とわかる自然な動きで、伝票を掴み席を立ちました。心臓は、走り出した馬のように暴れています。
会計までの約15メートル。それは俺にとって、針の穴に糸を通すような、極限の集中力が要求される道でした。
レジの店員さんに伝票を渡す。
小銭を出す音ですら、彼らの注意を引くノイズになりかねません。俺は呼吸を止め、千円札で支払いを済ませました。
お釣りとレシートを受け取る時間すら、永遠のように感じられます。
解放と、安堵の正体
自動ドアが開き、外の生ぬるい空気に触れた瞬間、俺は初めて自分が息を止めていたことに気づきました。
大きく息を吸い込み、吐き出す。生きてる。誰にも見つからなかった。誰にも話しかけられなかった。
あの強烈な焦燥感と、今感じているこの圧倒的な安堵感。この正体は何だったのでしょうか。
それはきっと、「自分だけの時間」という、ささやかで、しかし誰にも侵されたくないテリトリーを守り抜けたことへの安堵なのだと思います。
一人でいるところを見られるのが恥ずかしいのではありません。
俺が俺でいられる、あの静かで完璧だったはずの「城」が、彼らという巨大な力によって、一方的に破壊されることへの恐怖だったのです。
俺は少しだけ遠回りをして、夜道を歩きました。イヤホンからは、相変わらずクラスで俺だけが知っているバンドの曲が流れています。
大丈夫。俺の城はまた明日、どこか別の場所に築けばいい。
そう思いながら、俺は暗闇に紛れて静かに家路につくのでした。






