河川敷の黙示録 ~社内BBQで蘇るスクールカースト~

社内BBQにおける我々 ナントカのムダ使い

序章:狼煙は、部長の乾杯の音頭と共に

その日、会社の「親睦を深める」という誰も本気では信じていない大義名分のもと、我々は河川敷へと召集されました。

初夏の少し湿り気を帯びた生ぬるい風。草の匂いと遠くで甲高い声を上げて走り回る子供たちの笑い声。それは一見すると、どこにでもある平和な休日の風景でした。

しかしその穏やかな時間は、缶ビール片手に上機嫌の部長が放った「よーし、じゃあ今日は無礼講で、みんなで楽しもう!」という、この世で最も信頼性の低い乾杯の音頭によって突如として終わりを告げます。

我々は、その言葉が楽しい宴の始まりの合図などではないことを本能的に理解していました。これは、親睦会などではありません。

これは、我々の持つ「コミュニケーション能力」「主体性」「気の利かせ能力」といった、給与明細には決して現れない、しかしこの社会で生きる上であまりにも重要な全てのスキルが、青空の下で白日の下に晒される、一種の公開査定なのだと。

そして、地獄の釜の蓋を開けるあの運命の一言が放たれるのです。

「じゃあ、みんな適当に手伝って、どんどん焼いて食べてー!」

「適当に」。なんと無慈悲で、なんと無責任な言葉でしょうか。この瞬間、体育館の空気が一変したあの日の記憶が鮮明に蘇ります。

「社員」という昨日まで秩序を保っていた集合体は、目には見えない力によって瞬時に分解され、そして再編成されていくのです。

視線が交錯し小さな声が交わされ人々があるべき場所へと収まっていく。その光景を、我々はただ立ち尽くして眺めることしかできません。

立ち尽くす我々

そう、我々は悟るのです。これは、あの体育の授業で味わった悪夢「二人一組」の、完璧な再来なのだと。


第1章:カースト上位(陽キャ)たちの華麗なる舞

ホイッスル(乾杯の音頭)が鳴った瞬間、まず動くのはやはり彼らでした。学生時代に間違いなくクラスの「一軍」に所属し、文化祭や体育祭の中心で太陽のように輝いていたであろう、あの男女たちです。

焼き場には、元サッカー部エースの営業部の若手社員が、まるで息をするかのように自然にトングを握り、火の番人としての役割を全うしています。

「肉、焼けてますよー!」「😄さん、野菜もちゃんと食べてくださいねー!」と、その絶妙な仕切りと声がけでBBQの心臓部を完全に掌握する。彼にとってこれは労働などではなく、ただ自らの得意な能力を発揮しているだけの、快感を伴う自己表現なのです。

その傍らでは、元女子バスケ部キャプテンの人事部の女性社員が、驚異的な視野の広さで誰の飲み物が空になっているか、誰がお皿を欲しがっているかを瞬時に把握し、天使のような笑顔で駆け回っています。「😁さん、次何飲みますかー?」という、その天性のホスピタリティ。

それはもはや奉仕ですらなく、この場の満足度を全てコントロールしようとする、一種の慈愛に満ちた支配です。

そして最も重要なポジション、すなわち上司の隣を企画部の世渡り上手な男が完璧にキープしています。彼は肉を焼くことにも皿を配ることにも参加しません。

しかし「部長、さすが焼き方が違いますねえ!」「いやー、課長のお話は本当に勉強になります!」という巧みな相槌と露骨なヨイショだけで、このBBQにおける評価点を静かに、着実に稼いでいるのです。

彼らは誰に指示されるでもなく自らの役割を瞬時に見つけ出し、躍動する。その姿は、我々「持たざる者」の目にはあまりにも眩しく、そして絶望的に遠く映るのです。


第2章:立ち尽くす我々。「手伝うべきこと」が見つからない地獄

一方、我々はどうでしょうか。学生時代、体育館の隅で壁のシミの数を数えることで自らの尊厳をかろうじて保っていた、あの我々です。

我々の脳内では、凄まじい葛藤が嵐のように吹き荒れています。
「何か、手伝わなければ…」という給料分の働きをしなければならない社会人としての理性。しかしそのか細い理性を、いくつもの巨大な「恐怖」が、無慈悲に打ち砕いていくのです。

  • 役割の重複への恐怖
    焼き場にはすでに完璧な支配者がいる。配膳には慈愛の天使がいる。今さら自分がその完成された布陣の中に「何か手伝うことありますか?」と間抜けな顔で飛び込んでいったところで、「あ、大丈夫でーす」という丁寧な拒絶が返ってくるだけではないだろうか。
  • 無能の露呈への恐怖
    もし勇気を振り絞ってトングを握ったとして、任された高級和牛を無惨な炭の塊に変えてしまったら? 「あいつ、仕事だけじゃなくてBBQすらできないのか」という回復不可能な烙印を押されてしまうのではないだろうか。
  • 輪を乱すことへの恐怖
    彼らが作り上げているあの軽快なパスワークと内輪のジョークで構成された完璧なチームワークの輪。その美しい調和を、自分という異物が不協和音となって乱してしまっていいのだろうか。
  • 「必死だ」と思われることへの羞恥心
    本当は心が焦燥感で焼けただれているにも関わらず、我々はポーカーフェイスを装ってしまう。「別に、私はガツガツ参加するタイプじゃないので」という達観した大人のフリ。その自意識が初動の遅れを生み、気づいた時には全ての役割が他の誰かに奪われているのです。
  • 「何をすればいいか分からない」という純粋な思考停止
    そして結局のところこれです。これらの恐怖が複雑に絡み合った結果、我々の脳は処理能力の限界を超え、思考を停止します。

そして、その全ての葛藤の末に我々が行き着く典型的な行動。それが、「右手に空の紙皿を持ち、左手にまだ一口しか飲んでいない、ぬるいお茶の入った紙コップを持ってただ立ち尽くす」ということなのです。


第3章:存在意義を求めて

この地獄のような「手持ち無沙汰」の時間をどう生き延びるか。我々はあの体育館で培い、社会の荒波の中で磨き上げてきたサバイバルスキルを、無意識のうちに発動させます。

擬態①:食材を見守る者

クーラーボックスの前に陣取り、時折その蓋を開けては中の肉や野菜の鮮度を誰よりも心配しているかのような真剣な表情を浮かべる。

「この肉が最高の状態で焼かれることだけを私は願っているのだ」という、食の安全を守る番人のフリをするのです。

クーラーボックスの蓋を開けて中の肉や野菜の鮮度を誰よりも心配している男性

「食の安全を守る番人のフリ」の目的①:「何もしない罪悪感」からの逃亡

我々がこの擬態を行う最も根源的な動機。それは「この場所にいながら何もしない」という、耐えがたい罪悪感から逃れるためです。

ただ突っ立っているだけでは、我々は社会の役に立たない「無価値な存在」になってしまう。その恐怖が我々を苛みます。しかし、焼き場に行く勇気も皿を配る気配りも我々にはない。

その、進むも地獄退くも地獄の状況で、我々が最後の活路として見出すのが、「誰もやっていない、ニッチな役割」を自ら「創造」することです。

それが、「食材の品質を管理する専門家」という架空の役職です。

我々は、番人のフリをすることで「私は何もしない無能な人間ではない。私は『管理』という目に見えない、しかし極めて重要な貢献をしているのだ」と、自分自身に必死に言い聞かせているのです。

それは食の安全を守るためではなく、自らの心の安全を守るためだけの自己中心的なアリバイ工作なのです。

「食の安全を守る番人のフリ」の目的②:「話しかけられるリスク」の完全なる排除

我々が、クーラーボックスの前というあの「日陰の辺境」を選ぶのには、もう一つ現実的な理由があります。それは「誰からも話しかけられないから」です。

焼き場の周りは、常に陽キャたちの活発なコミュニケーションで満ち溢れています。そこは我々にとって地雷原です。

しかし、クーラーボックスの周りはどうでしょうか。そこは、飲み物を取りに来る人間が一瞬立ち寄るだけの静かなエリア。会話が生まれる土壌がそもそもないのです。

さらに、我々は腕を組み真剣な表情でクーラーボックスを睨みつけている。

「何か重大なことを考えている」というオーラを発しています。この「話しかけるなバリア」は、万が一誰かが我々にコミュニケーションを試みようとした際の、強力な抑止力となります。

そう、我々は安全な場所にいるのではありません。

我々は、自らの周りに安全な場所(=誰も話しかけてこない空間)を、自ら作り出しているのです。

それは、親睦を深めるためのBBQにおいて、最も親睦から遠い孤独な砦です。

「食の安全を守る番人のフリ」の目的③:「失敗する責任」からの完全なる逃避

そして、この擬態の最も巧妙で卑劣な目的がこれです。
それは、BBQにおけるあらゆる「責任」から完全に逃れること。

もし肉を焼けば、焦がす責任が生じます。
しかし、「食材を見守る」という行為には何の責任も発生しません。

たとえ、中の肉がぬるくなっていたとしても、それはクーラーボックスの性能のせいにできます。
たとえ野菜がしなびていたとしても、それは買ってきた人間のせいにできます。

我々は、「見守る」という結果に対する一切の責任が伴わない神のようなポジションに自らを置くことで、あらゆる「失敗のリスク」から逃げているのです。

我々は、貢献したいのではありません。

我々は、貢献しようとして失敗し「無能」の烙印を押されることを何よりも恐れている。
だから、何もしない。何もしなくて済む完璧な言い訳として、「食材の番人」という架空の役割を演じているだけなのです。

擬態②:風景写真家

おもむろにスマホを取り出し、カメラを起動させます。

しかし、そのレンズは決して楽しげな陽キャたちへと向かうことはありません。我々にとってそれはあまりにも畏れ多い冒涜だからです。

彼らの頭上に浮かぶ雲の形、背後に生えている名も知らぬ木々、あるいは、自分の足元のスニーカー。

「私はこの俗世の喧騒から離れ、一瞬の美を切り取る孤高のアーティストなのだ」というポーズを取る。

言うまでもなく、社内の誰にも需要はありません。

俗世の喧騒から離れ一瞬の美を切り取る孤高のアーティスト

「風景写真家になるフリ」の目的①:「群れない自分」の正当化

我々が、空や雲や鉄橋にレンズを向けるその最大の動機。

それは、「私はあなたたちとは違う」という無言の、しかし強烈な選民意識の表明です。

陽キャたちが肉を焼き、お酒を飲み、内輪のしょうもないジョークで笑い合う。その動物的で本能的な、ありふれた快楽。我々はその輪に入れないという現実をまず受け入れます。
しかし、ただ敗北を認めるだけでは我々の自尊心は保てません。

そこで我々は、価値観のピラミッドを脳内で逆転させるのです。

「彼らが興じているのは低俗な楽しみだ。しかし私は、この何気ない風景の中に、彼らには見えない『美』や『真理』を見出すことができる、より高度で知的な存在なのだ」

我々は風景を撮っているのではありません。

我々は、「群れている彼ら」と「群れない自分」との間に知的な壁を築き、自らの孤独を「孤高」という美しい言葉へと必死に翻訳しようとしているのです。

「風景写真家になるフリ」の目的②:「何してるの?」という問いからの逃走

この擬態の極めて実利的な目的。それは、他者からのコミュニケーションを物理的に、そして心理的にシャットアウトすることです。

もし我々がただぼーっと立っていれば、「どうしたの?」「楽しんでる?」といった悪意なき、しかし我々にとっては拷問に等しい問いかけが飛んでくる可能性があります。

しかし、我々がスマホを構え、眉間にしわを寄せ、「作品創りに没頭しているアーティスト」のオーラを発していればどうでしょうか。

そこに声をかけることのできる人間は、よほどの無粋な人間でもない限り存在しません。それは、祈りを捧げている聖職者に話しかけるようなもの。我々の、その近寄りがたい真剣な横顔は、「邪魔をするな」という拒絶のサインとなっているのです。

我々は風景と対話しているフリをしながら、人間と対話しなければならなくなるあらゆるリスクから全力で逃げているのです。

「風景写真家になるフリ」の目的③:アリバイ工作の完成

そしてこれが、この擬態の最も巧妙な点です。

それは、BBQという共同作業の場において「何もしない」という、本来であれば許されざる怠惰を「創造的活動」という名の下に正当化できるという事実です。

「食材を見守る者」は、まだ「貢献しているフリ」をするという、消極的な参加の意志が見えます。

しかし、「風景写真家」は違います。
彼らは、もはやBBQそのものに参加することを完全に放棄しているのです。

「私は今、BBQに参加しているのではありません。私は今、たまたまBBQの会場で『創作活動』を行っているだけなのです」

このあまりにもふてぶてしい論理。

この芸術家という仮面を被ることで我々は、「お肉を焼く」「お皿を配る」といった、全ての面倒なタスクから解放されるだけでなく、「何もしない」という自らの選択が、あたかも崇高で誰にも邪魔されてはならない聖なる行為であるかのように、周囲に誤認させようとするのです。

それは孤独から生まれた悲しい逃避であると同時に、自らの怠惰を芸術へと昇華させる、あまりにも狡猾なアリバイ工作の完成形なのです。

擬態③:ひたすら食べる者

これは最もリスクを伴う高等戦術です。誰かが焼いてくれた肉や野菜をひたすら自分の席で消費し続ける。しかし、ただ食べてはいけません。

「手伝ってないくせに食べることだけは一人前だな」という周囲からの無言の非難を回避するため、我々は一口食べるごとにまるで奇跡にでも出会ったかのような恍惚の表情を浮かべなければならないのです。

「うまっ…! この焼き加減、天才か…?」と、聞こえるか聞こえないかの声で呟く。

我々の咀嚼は味わったり空腹を満たすための行為などではなく、焼き手への最大限の敬意を示すための、全身全霊の感謝パフォーマンスなのです。

焼き手への最大限の敬意を示すための全身全霊の感謝パフォーマンス

「焼き手への最大限の敬意」の目的①:自らの「存在理由」を創造するため

何もせず、ただ立ち尽くしている。

この状況は、我々の自尊心をヤスリで削るように少しずつ、しかし確実に蝕んでいきます。

「自分はこの場所にいる価値がないのではないか」
「自分はただのお荷物なのではないか」

客観的な事実ではありますが、その耐えがたい自己否定の感情から逃れるため、我々は自らに「役割」を与えるのです。

それが、「料理の価値を誰よりも深く理解してその素晴らしさを味わう、専門のテイスター(鑑定家)」という役割です。

我々のあの咀嚼は空腹を満たすためではありません。

それは、「私は、あなたたちが生み出したこの素晴らしい作品の最初の、そして最高の理解者なのですよ」と、自分自身に必死に言い聞かせるためのアリバイ工作なのです。

敬意のベクトルは外(焼き手)ではなく、内(自分)へと向いている。それが第一の真実です。

「焼き手への最大限の敬意」の目的②:「何もしない罪」から、身を守るための「盾」

我々の心の中には、常に一つの恐怖が渦巻いています。
それは先ほど述べたとおり、「手伝ってないくせに食べることだけは一人前だな」という周囲からの無言の非難です。

この見えないナイフから自らの心を守るため、我々は「感謝」という盾を構えるのです。
ただ、黙って食べていればそれはただの「つまみ食い」であり怠惰です。

しかし、そこに「うまいっ…!」という過剰なまでのリアクションを加えることでその行為は、「感謝の表明」という誰も非難することのできないポジティブな行為へと変化させることができるのです。

我々は、敬意を示したいから感謝するのではありません。

我々は、非難されたくないから、攻撃されたくないから、その予防線として感謝というパフォーマンスを行っているに過ぎないのです。

「焼き手への最大限の敬意」の目的③:「感謝される側」への無意識の嫉妬

そしてこれが最も根深く、そして醜い感情かもしれません。

焼き場に立つ陽キャたちは、「ありがとう!」「うまい!」と、周囲から、次々と、感謝と称賛の言葉を浴びています。彼らは、「感謝される側」という最も心地よいポジションにいとも簡単に立っている。

その光景を、輪の外から眺める我々の心には羨望と、そしてかすかな嫉妬の炎が灯ります。
我々も、誰かに感謝されたい。認められたい。
しかし、そのためのスキルも勇気もない。

ならば、どうするか。
我々は、「感謝される側」になれないのならせめて、「最も上手に感謝する側」になろうとするのです。

「あんなに美味しそうに食べてくれるならいた甲斐があったな」と、焼き手に一瞬でも思わせることができたなら。それはこのBBQにおける我々の唯一の「勝利」だからです。
それは敬意ではなく、承認欲求を満たすための屈折したあがきなのです。

我々は感謝の仮面を被ることで、かろうじてそこにいることを自分自身に許しているのです。

擬態④:遠くの景色を眺める者

全ての擬態に疲れた我々が最後にたどり着く境地。

それは少し輪から外れた場所で腕を組み、川の流れや対岸の高速道路を走る車をただ見つめることです。「私はこの世の喧騒から離れ、人生の意味について物思いに耽っているのだ」という哲学者のフリをするのです。

哲学者のフリをする男性

「哲学者のフリ」の目的①:あらゆる命令を無効化する「体調不良」の申告

この擬態が持つ、最も狡猾な防御性能。
それは、自らの肉体に「体調不良」という見えないバリアを張り巡らせることです。

我々は腕を組み、川の流れを見つめます。
その表情は深刻そうですが、会社の未来を憂いているという大げさなものではありません。
その顔に浮かんでいるのは、もっとこう個人的で、内省的で、そして誰にも介入する隙を与えない、静かな「痛み」の気配なのです。

もし上司がこちらに歩み寄り、「おい、ボーッとしてないで手伝えよ」と言ってきたとしましょう。

その時、我々は慌てません。
ゆっくりと上司の方を向き、そして少しだけ眉間にしわを寄せ、こう言うのです。

「あ、すいません…。ちょっと昨日から頭痛が抜けなくて…。すみません少し風に当たってました…」

この反論のしようがないこの一言。上司はもはや何も言えません。

「体調が悪い」という、絶対的な伝家の宝刀。しかも「熱がある」とか「吐き気がする」といった「じゃあ帰れよ」と言われかねない具体的な症状ではなく、「頭痛が抜けない」「少し風に当たっていた」という、帰るほどではないが、積極的に動くのは少し躊躇われるという絶妙なグレーゾーン。

さらに我々は、「手伝いたくない」などとは一言も言っていないのです。

「頭痛がするのにここにいて申し訳ない」という罪悪感を表明することで、逆に相手に「ああ、無理させるのは悪いな」という同情の感情を植え付けているのです。

我々は、哲学をしているのではありません。
我々はただ、「証明不可能な体調不良」という誰も踏み込むことのできない結界の中で、自らの何もしない自由を合法的に守り抜いているだけなのです。

「哲学者のフリ」の目的②:あらゆる「流れ弾」から身を守るための完璧な安全距離

我々が陣取る、その輪から5メートル離れたその場所。

それは、決して何か好機を狙うための待ち伏せポイントなどではありません。
それは、あらゆる予期せぬコミュニケーションの「流れ弾」から、自らの脆い心を確実に守り抜くための非武装地帯なのです。

輪の中心は、戦場です。
そこでは常に、予測不能な会話の銃弾が飛び交っている。
「そういえば、〇〇の件どうなった?」という、突然の業務確認。
「お前彼女とうまくいってんの?」という、プライベートへの無遠慮な空爆。
「なんか面白いこと言えよ」という、人間性そのものを試す無慈悲、狙撃。

我々はこれらの全ての流れ弾を恐れている。
だからこそ、我々は選ぶのです。
輪の中心から5メートル。

そこは誰かのくしゃみが聞こえても、「お大事に」という会話には参加しなくてもいい距離。
誰かが爆笑しているのが見える。しかし、何が面白かったのかは知らなくてもいい距離。
上司が誰かを褒めているのがわかる。しかしその輪の中にいない自分は比較されることもない距離。

この「現象は認識できるが、その当事者にはならなくて済む」という絶妙な安全距離。
そこは、ゴシップの流れ弾も業務確認の流れ弾も決して届かない、完璧なシェルターなのです。

そして、万が一サプライズで社長が高級なお酒を持って登場したとしたら?

我々はもちろん、「社長!」などと駆け寄ることはできません。
我々にできる唯一の行動。

それは、「そのめでたいイベントが発生したことを認識した上でなお動かず、しかし少しだけ口角を上げて遠くからその様子を見守ることで、『私もこのめでたい空気を共有していますよ』という所属の意思表示だけを、微弱な電波のように送る」ことだけです。

我々は、おいしいところを狙っているのではありません。

我々は、ただ面倒なことに巻き込まれず、しかし完全に輪の外にいる協調性のない人間だとも思われたくない、という矛盾した二つの願いを同時に叶えるための最も臆病で卑劣なリスク回避ポジションを死守しているだけなのです。

「哲学者のフリ」の目的③:「参加できなかった自分」を救うための記憶改竄

そして、この擬態が持つ最も物悲しい目的。
それは誰かに語るためですらなく、未来の自分自身のためです。

月曜日のオフィスで、誰にもBBQの話題を振られることなく、孤独に苛まれるであろう未来の自分。その心の中に響く「結局お前は何もしなかったな」という自己否定の声。

その内なる糾弾から自らの心を守るため、我々はこの河川敷で完璧な「物語」を捏造しておくのです。

我々は川の流れを見ながら、誰かに語るための言い訳を考えているのではありません。
我々は、未来の自分が自分を嫌いになってしまわないように、「参加できなかった惨めな自分」という事実を、「自らの意思で参加しなかった孤高な自分」という輝かしい記憶へと、必死にすり替える作業をしているのです。

それは哲学などではなく、自らの惨めな敗北を、輝かしい選択であったと自分自身に必死に信じ込ませるための、悲しい自己弁護の儀式なのです。


終章:BBQとは、会社という名の「家族」になれるかどうかの残酷な踏み絵である

社内BBQとは一体何だったのでしょうか。

それは会社が我々社員に対して、「あなたは、この会社という共同体を血の繋がらない『疑似家族』や『友人グループ』として心から受け入れることができますか?」と無言で問いかけてくる残酷なリトマス試験紙なのです。

社内BBQから早く帰りたい男性

カースト上位の彼らはその問いに何の迷いもなく「YES」と答え、家族や友人として当たり前のように振る舞います。

しかし我々は、その問いにどうしても「YES」と答えることができません。我々にとって会社はあくまで「仕事をする場所」であり社員は尊敬する「同僚」ではあっても心を許せる「仲間」ではない。そのあまりにも真っ当で、しかしどこか寂しい一線を我々はどうしても越えることができないのです。

「いやー、やっぱりこういう場は大事だな! 今日のBBQでみんなのチームワークがさらに深まったと俺は思うぞ!」

宴もたけなわ、最後にすっかり出来上がった部長が赤い顔でこう総括するでしょう。
その言葉を聞きながら我々はすっかり中身のなくなった紙コップをただ強く、強く握りしめる。
そして心の中で静かにこう呟くのです。

「ああ、早く帰りたい。早く家に帰って、たった一人で誰に気兼ねすることもなくカップラーメンが食べたい」

そう、我々は輪の中に入れない寂しい人間なのかもしれません。

しかしこの経験もまた、自分と他人とのそして会社とプライベートとの「適切な距離感」とは何かを知るための、一つの貴重な学びであったのだと信じたいのです。

我々は陽キャにはなれないかもしれません。
しかし我々は、一人で食べるカップラーメンの、あの誰にも邪魔されない完璧な美味しさを知っているのです。

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