序章:悲鳴をあげ始める身体
ある月曜の朝、駅の階段を駆け上がっただけで、彼の心臓はまるでけたたましい警告音のようにドクドクと鳴り響きました。息は切れ、膝は笑い、額には脂汗がにじむ。その時、彼はふと理解するのです。自分のこの身体はいつのまにか古くなってしまったのだ、と。
これは、彼一人の物語ではありません。
日本の多くのオフィスで、椅子に深く腰掛けてパソコンの画面をぼんやりと眺めている、多くの中年男性たちの物語です。彼らの身体は若い頃の無茶な使い方によってあちこちがガタつき、きしみ、いつ壊れてもおかしくない「中古品」と化しています。
しかし、彼らが本当に直面している問題は、単なる体力の低下などではありません。
彼らがまだ気づいていない、もっと巨大で、そして避けようのない「リミット」が、すぐそこまで迫っているのです。
そのリミットの名は、「2025年の崖」。
経済産業省が発表した、ある重大な警告です。
第1章:継ぎ足し続けた「タレ」のように、複雑怪奇になった彼の身体
「2025年の崖」とは、一体何でしょうか。
簡単に言えば、多くの会社で使われている「古い仕組み」の保証期間が、2025年あたりで一斉に切れてしまうという問題です。その古い仕組みを使い続けると会社は大きな損害を被るかもしれない、と国は言っています。
ここで、先ほどの中年男性に話を戻しましょう。
彼の身体も、まさにこの「古い仕組み」そのものです。
20代の頃に作られた「一晩寝ればだいたい治る」という便利な基本性能の上に、30代で「栄養ドリンクによる強制的なパワーアップ」機能を追加し、40代では「とりあえず痛み止めを飲んで誤魔化す」という応急処置を繰り返してきました。
その結果、どうなったか。
まるで、何十年も継ぎ足し続けた秘伝のタレのように、彼の身体は「なぜ動いているのか、もはや誰にも説明できない」という、複雑で怪奇な代物になってしまったのです。
なぜ、昨日の焼肉は大丈夫だったのに、今日の唐揚げは胃にもたれるのか。
なぜ、右肩だけが雨の日の前に痛むのか。
その原因を彼自身も、そして最新の医療技術でさえも、完全には解明できません。あまりにも多くの無理とごまかしを、長年にわたって継ぎ足し続けてきたからです。
第2章:「若さ」という名の無制限サポートプランの終了
それでも、彼はこれまで何とかやってこられました。
なぜなら、彼の身体には「若さ」という名の最強のメーカー保証が付いていたからです。
- 24時間・年中無休の電話サポート: どんなに体調が悪くても、「気合」という名のサポートセンターに電話すれば、何とか乗り切れました。
- 無料の部品交換: 多少の怪我や病気も、驚異的な回復力で勝手に新しいものへと取り替えてくれました。
- 無制限のアップデート: 新しいスポーツを始めても、新しい趣味に挑戦しても、身体は文句も言わずにそれに対応してくれました。
しかし、その手厚すぎる無償の保証期間が、まもなく一斉に終わりを告げようとしています。
「お客様の『若さ』プランは、間もなくサポート期間を終了いたします」という、残酷な通知。それが、彼にとっての「2025年の崖」なのです。
メーカー保証が切れた後、製品がどうなるか私たちは知っています。
- ウイルスに感染しやすくなる: 免疫力という名のセキュリティソフトが更新されなくなり、風邪や未知の病気にあっさりと感染します。
- 突然、動かなくなる: ある朝、突然「ぎっくり腰」で身動きが取れなくなったり、「四十肩」で腕が上がらなくなったりします。保証が切れたからです。
- データが消える: 「あれ、なんだっけ」「ほら、あの人だよ」と、蓄積したはずの記憶や知識が、スムーズに取り出せなくなります。
そして最も恐ろしいのは、一度完全に壊れてしまった場合、それを元通りに直すための「交換部品」も「修理マニュアル」も、存在しないということです。
終章:あなたの「賞味期限」は、大丈夫ですか?
国は会社に対して「古い仕組みを捨てて、新しく生まれ変わりましょう(DX)」と呼びかけています。
これはそっくりそのまま、彼ら中年男性に突きつけられた最後の選択でもあります。
このまま、保証の切れた身体をだましだまし使い続け、いずれ来る「突然の故障」に怯えながら生きていくのか。
それとも、今こそ生活習慣という名の「古い仕組み」を根本から見直し、食事や運動という「新しい仕組み」に、苦痛を伴いながらも乗り換えるのか。
今夜も彼は、ソファに深く体を沈めテレビのリモコンを探しています。その姿は、自分の身体から発せられる小さな警告音には耳を塞ぎ、「まだ大丈夫」という根拠のない希望的観測に、静かに身を委ねているようにしか見えません。
「2025年の崖」は、もうすぐそこです。
この記事を読んでいるあなた自身の、あるいはあなたの身近な人の「保証期間」は、果たしていつまで有効なのでしょうか。
その有効期限を最後に確認したのは、一体いつのことだったでしょうか。