序章:その日、全ての机の「引き出し」は、ブラックホールになる
思い出せるでしょうか。
あの、2月14日の朝の教室の空気を。
そこはもはや、いつもの見慣れた教室ではありません。
その日は、「期待」という名の見えない、しかし確かに存在する特殊なエネルギー場が、空間全体を支配しています。
全ての男子生徒は平静を装いながらも、自らの意識の9割以上をたった一つのオブジェクトに集中させています。
そう、「机の引き出し」です。
あの、暗く狭い四角い空間。
それは、今日という特別な一日において、もはやただの物入れではありません。
それは、「奇跡」という名の物体Xが、いついかなる瞬間にワープしてくるかもしれない異次元と繋がった「ブラックホール」なのです。
授業中、先生の話など一言も頭には入ってきません。我々の全神経は、「誰かが、俺の机に近づいていないか?」「何か、コトンという小さな物音がしなかったか?」という、微細な環境変化のスキャンに費やされています。
そして、放課後。
一日中、何も起きなかった大多数の我々。
しかし、まだ物語は終わりません。
むしろ本当の「地獄」、いや「延長戦(アディショナルタイム)」は、ここから始まるのです。
なぜ我々は、チャイムが鳴ってもすぐには帰れないのでしょうか。
なぜ意味もなく教室の掃除を始めたり、友達とどうでもいい長話をしたりして、時間稼ぎという名の涙ぐましい抵抗を試みてしまうのでしょうか。
この記事は、バレンタインデーという残酷なまでの選別儀式の日において、我々持たざる者たちが、いかにして希望的観測にしがみつき、そしてその心が静かに折れていくのか。そのあまりにも人間的な行動心理の全記録です。
さあ、あの甘くそしてどこまでもしょっぱい、一日の記憶を共に振り返りましょう。
第1章:放課後という名の「延長戦」 我々がすぐに帰れない4つの理由
全ての授業が終わり、帰りのホームルームも終わった。
クラスの人気者たちは、「〇〇(女子の名前)から、もらったわー!」などと、戦利品を見せびらかしながら早々に教室を去っていきます。
しかし、我々は動けません。椅子から腰を上げることができないのです。
その背景には、我々の哀しい、しかし極めて合理的な、4つの生存戦略が働いています。
①「人混みでは渡せないはずだ」 シチュエーション限定仮説
まず、我々が最初に抱く希望。
それは、「彼女は本当は俺に渡したかった。しかし、クラスメイトが大勢いるこの衆人環視の状況では恥ずかしくて渡せなかったに違いない」という、極めて都合のいい仮説です。
そうです。彼女はシャイなのです。
彼女のその繊細な乙女心を、我々が察してあげなければならない。
我々がここでやるべきこと。それは、「彼女がチョコを渡しやすくなる最適なシチュエーション」を、こちらから提供してあげるということ。
すなわち「教室に誰もいなくなるまで待つ」という、極めて紳士的な配慮なのです。
②「帰るタイミングが被るかもしれない」 確率論的接近遭遇
次に我々が計算に入れるのが、「偶然の遭遇」という名の確率論です。
教室で待つのが難しいのであれば、次の戦場は「下駄箱」か、あるいは「校門」です。
彼女が教室を出て下駄箱に向かう平均所要時間を、脳内で高速で計算する。
そして、自分もその数分後に教室を出る。
そうすれば、もしかしたら下駄箱で、あるいは校門を出たすぐの曲がり角で二人きりになるという天文学的な確率の奇跡が起きるかもしれない。
その「もしも」のために、我々は友人と不必要に長いプロ野球の話を続けたり、誰も解けないはずの数学の問題に頭を悩ませるフリをしたりするのです。
③「空っぽの下駄箱」を確認するまでは死ねない。「敗北」の最終確認儀式
しかし、それでも何も起きなかった場合。
我々は最後の、そして最も重要な儀式を執り行わなければなりません。
それは、自らの「下駄箱」の中を確認するという行為です。
もしかしたら、我々が教室で時間稼ぎをしている間に。
彼女が人目を忍んでそっと我々の下駄箱に、小さな包みを忍ばせてくれているかもしれない。
期待と不安が入り混じる心臓の鼓動。
錆びた下駄箱の扉をゆっくりと開ける数秒間。
まるで、神の審判を待つかのような厳粛な時間。
そしてそこに鎮座しているのは、いつもと何ら変わらない履き古した一足の靴だけ。
その「空っぽの現実」をその目で確認したその瞬間。
我々は、ようやく今日のこの長かった戦いが「敗北」に終わったことを正式に受け入れるのです。
④「手ぶらで帰る」という、屈辱の回避
しかし、まだです。
まだ本当の地獄は終わってはいません。
家に帰るまでがバレンタインデーなのです。
もし、このまま手ぶらで家に帰ったとしたら。
リビングで待ち構えている、母親という名の最もデリカシーのないインタビュアーから何を言われるか。
「あら、あんた今日は何もなかったの?」
その悪意のない、しかし何よりも鋭利な刃物のような一言。
それを回避するため、我々は帰り道のコンビニエンスストアに立ち寄ります。
そして、自らのなけなしの小遣いで自分自身のための、義理チョコ(という名の、敗北の味のするチョコレート)を一つだけ購入するのです。
これは、誰のためでもない。ただ、自らの砕け散ったプライドの最後のカケラを守るためだけの、あまりにも哀しい課金なのです。
終章:そして少年は、来年の「2月14日」をまた夢見る
空っぽの下駄箱。
自分で買った一つのチョコレート。
それが、あなたの今日という特別な一日の全ての戦果でした。
あなたは帰りの電車の中で、窓の外の流れていく景色を見ながら思うのです。
「ああ、今年もダメだったか」と。
そして、来年こそは、と。来年こそは、髪型を変え、服を買い、面白くなって、人気者になって、そして、あの教室の中心で、戦利品を自慢する側の人間になってやると。
そうです。
バレンタインデーの、本当の残酷さ。
それは、「来年」という甘い希望が必ずやってきてしまうことなのです。
この、終わりのない期待と絶望のループ。
我々は、この不毛なサイクルから一体いつになったら抜け出すことができるのでしょうか。
そのあまりにも遠い道のりを知る由もなく。
少年は、今日手に入れたあの敗北の味のするチョコレートを、自室の机の奥深くにそっとしまい込むのです。
誰にも見つからないように。
来年の戦いに備えるために。