序章:その「予感」の正体は、奇跡という名の「事故」だった
思い出せるでしょうか。
あの、卒業式の日の夕暮れ時を。
体育館での、長くて中身のない校長の話。
最後のホームルームの、騒がしくも寂しい空気。
友人たちが寄せ書きを交換し、「またな!」と固い握手を交わす、あまりにも輝かしい光景。
あなたは、その全ての輪から少しだけ離れた場所で、ただ静かにそこにいました。
主役たちはもう去り、黒板には誰かが書いた「3年間ありがとう!」の文字が寂しげに消えかかっている。
教室のざわめきが消え、後輩たちの楽しげな声も遠くに聞こえる。
夕日が窓から差し込み、空中に舞う埃を黄金色に照らし出す。
世界は、美しく、そして静かに終わろうとしていました。
ほとんどの人間は、もう帰ったはずです。
あなたも、帰るべきなのです。
しかし、なぜか足が動きません。
あなたは一体何を待っているのか。
本人にさえ分かっていません。
ただ、何か「起こるはずのない何か」が、すぐそこの廊下の角を曲がった先に待っているような、馬鹿げた、しかし確かな「予感」だけを胸に。
そう。彼は待ち人ではなかった。
彼は、奇跡という名の「事故」を、ただ待っていたのです。
この記事は、私たちがなぜ、このありえないはずの「卒業式の奇跡」を、かくも鮮明に、そして切実に夢見てしまうのか。その哀しい魂のメカニズムを確率論と心理学で分析していきます。
第1章:第1関門「彼女が校内に残っている」という極めて低い確率
まず、私たちが検証しなければならない最初の、そして最も困難な関門。
それは、「果たして意中の彼女は、この時間、まだ校内に存在しているのか?」という極めて基本的な問題です。
検証①:動機の完全なる「不在」
冷静になって考えてみましょう。
卒業式の全ての公式プログラムが終了した、この午後3時過ぎという時間。
一人のごく普通の女子生徒が、あえて学校に残り続ける「論理的な動機」は一体何でしょうか。
- 友人との別れを惜しむため?
それならば、教室ではなく校門の前や駅前のファーストフード店で行われるのが自然です。 - 先生に挨拶をするため?
それならば、彼女がいるべきは職員室の前であり、誰もいない3階の教室ではありません。 - 忘れ物を取りに?
可能性はゼロではありません。しかし、その場合彼女の行動は極めて迅速かつ効率的に行われるはず。「自分の机の中を確認し、なければ去る」。そこに、あなたとのロマンチックな邂逅が生まれる余地は、残念ながらほとんどないでしょう。
そう。私たちはまず認めなければならない。
彼女がこの時間に校内を一人で目的もなく彷徨っているという前提条件そのものが、既にファンタジーの領域に属しているということを。
確率計算:フェルミ推定による絶望の可視化
では、この極めて低い可能性をあえて数値化してみましょう。
このような答えのない問題の概数を算出する思考法を「フェルミ推定」と呼びます。
まず卒業式直後、クラスの生徒全員(仮に40人)が教室に残っているとします。
- 5分後、友人たちと固まって帰るグループが半数(20人)いなくなります。残り20人。
- さらに10分後、部活の後輩に挨拶に行くなど、個別の用事がある生徒がその半数(10人)いなくなります。残り10人。
- さらに15分後、ほとんどの生徒は名残を惜しみつつも、親との待ち合わせなどのため帰宅します。
この段階で、彼女が何らかの理由で校内に滞在している確率を、非常に甘く見積もって10%と設定してみましょう。
はい。これが最初の数字です。
10回に9回、あなたの待つ教室に奇跡は絶対に起こらない。
しかし、まだ希望を捨ててはいけません。10%の可能性はまだ残っているのですから。
第2章:第2関門「彼女がその教室を目指す」という、天文学的な確率
さて、10%の確率の壁を奇跡的に突破したとしましょう。
彼女はまだ、校内のどこかにいます。
しかし、次に私たちの前にさらなる絶望的な壁が立ちはだかります。
それは、「では、なぜ彼女は数ある部屋の中から、ピンポイントであなたが一人ポツンと佇んでいる、あの3年B組の教室を目指す必要があるのか?」という問いです。
検証②:目的地としての不合理性
もし、彼女が本当にあなたに特別な用事があるのなら。
彼女は教室であなたを待ったりはしないでしょう。現代にはメールやLINEという便利な通信手段があるのですから、「今、どこにいる?」と一言送れば済む話です。
つまり、彼女があなたを探してこの教室に来るという可能性は論理的にほぼゼロ。
考えられる唯一の可能性。
それは、「彼女が何の目的もなく校内をランダムに歩き回り、そして偶然その扉を開けた」というシナリオだけです。
確率計算:あなたの待つ教室に彼女が辿り着く奇跡の定量化
彼女の動きを、完全にランダムな酔っ払いの動きと仮定してみましょう。
あなたの学校には、一体いくつの教室や特別教室がありますか?
普通教室が各学年6クラスとして18部屋。理科室、音楽室、美術室などの特別教室が少なくとも12部屋。合計30部屋。
彼女がその30の扉の中から、ただ一つの「当たり」の扉(あなたが待つ3年B組)を開ける確率は、単純計算で1/30。すなわち、約3.3%です。
中間報告:あなたの妄想が現実になる確率
さあ、これまでの計算結果を掛け合わせてみましょう。
(彼女が校内に残っている確率) × (彼女がその教室に来る確率)
10% × 3.3% = 約0.3%
1000回卒業式を繰り返して、わずか3回しか起こらない。
これが、我々のあの甘美なる妄想の、現時点での発生確率です。もはや奇跡というよりは、統計学的な「エラー」に近い数値です。
第3章:最終関門「そして彼女は、君に告白する」という、非科学的な「信仰」
しかし。しかし、です。
私たち人類の想像力は、この絶望的な確率計算をいとも容易く飛び越えていきます。
0.3%の確率を乗り越え、彼女は今、教室の入り口に立っている。
「……あれ? 〇〇(あなたの名前)君、まだいたんだ」
ここからが、我々の妄想が最もその翼を広げる瞬間です。なぜかここから、彼女があなたに告白してくるという、あまりにも都合のいい物語が展開されるのです。
検証③:これまでの「伏線」の完全なる不在
ここで、私たちはあまりにも残酷な、しかし目を背けてはならない最終検証に入らなければなりません。
彼女があなたに「告白する」という最終イベントを発生させるための「フラグ(伏線)」は、これまでの3年間の物語の中に、ただの一つでも存在していたでしょうか。
- 目が合った回数: 通算27回。(うち25回は、自分が一方的に見てただけ)
- 交わした会話の総数: 6回。(全て業務連絡のみ)
- LINE等のやり取り: 存在しない。連絡先すら知らない。
- 二人きりで帰った回数: 言うまでもなくゼロ。
この客観的なデータから導き出されるただ一つの論理的な結論。
それは、「彼女とあなたの間には、恋愛感情に発展しうる、いかなる因果関係も観測されない」ということです。
妄想の「自己分析」:なぜこの「奇跡」が必要だったのか
では、なぜ私たちの脳は、この完全に論理が破綻した、ありえない「告白」という物語を生み出してしてしまうのでしょうか。
それは、私たちの脳が「認知的不協和」という不快な状態を、何よりも嫌うからです。
A:「私はこの3年間、クラスの誰にも認められない透明人間だった」という、耐えがたい現実。
B:「私は本来、特別な存在であり、物語の主人公であるべきだ」という、肥大化した自己愛。
このAとBの激しい矛盾から自らの心を守るために、私たちの脳は最後の、そして最も強力な「物語による自己正当化」という手段に打って出るのです。
「いや、違う。俺は透明人間などではなかった。
実はクラスで一番人気のあの彼女だけは、私の隠された魅力にずっと前から気づいていた。
そして、卒業式という最後の瞬間に、その秘めた想いを伝えに来てくれるはずだ」
そうです。
「卒業式の奇跡」とは、我々がこの無力で残酷な3年間を肯定して生き延びるために、自身の脳が自身のために必死で作り出した、あまりにも優しく、そして哀しい鎮痛剤だったのです。
終章:その「奇跡」は起きなかった。しかし、それでよかった
結局のところ。
夕暮れのチャイムが響き渡り、用務員のおじさんに「もう下校時間だよ」と声をかけられるまで、彼女があの教室の扉を開けることはありませんでした。
奇跡は起きなかった。
あなたの3年間の物語は、主人公(あなた)以外の全ての登場人物が退場したまま、静かに幕を閉じるのです。
がっかりしたでしょうか。
いいえ。それでいいのです。それでよかったのです。
なぜなら、もし本当にあの妄想が現実になっていたら、何の準備も覚悟もできていないあの頃のあなたは、その後の現実の面倒で複雑な人間関係に、きっと耐えられなかったでしょうから。
あの、誰もいない教室であなたが一人胸に抱いていたもの。
それはただの「妄想」ではありません。
「ありえないかもしれないけれど、もしかしたら…」という、あのあまりにも純粋で、あまりにも利己的で、そしてあまりにも美しい「祈り」そのもの。
それこそが、あなたのあの灰色の3年間が決して無意味ではなかったことを証明する「宝物」だったのです。
その祈りは、叶わなかった。
しかし、「祈ることができた」という事実こそが、あなたの青春の最も尊い中心にあった。
そして、その祈りの熱量こそが、次の新しい物語の最初の一ページをめくるための力となるのです。